■
ウォークマンは個人の聴覚に関する記憶の蓄積を、媒体として残すことにはじめて成功した*1。将来ぜったい役に立つから、大切にとっておくといいと思う。認知症やアルツハイマーの治癒に使えるという研究結果もある。聴覚刺激が場面想起を引き起こすことによるものだと思う。ここでいうウォークマンはiPodに置き換えてもいい、つまりMP3プレーヤーのこと。こうして考えると五感はストリーミングではなくダウンロードでないといけないと思う。それから、より直接的に感性へ訴えかけるのがヘッドホンやイヤホンな感じがあってなんかすげえと思う。感覚の研ぎ澄ましみたいなことが起きてるのかわからないけど、テレビに出てきた認知症のおばあちゃんもヘッドホンで昔聴いてた音楽聴いてた。個人レベルの聴覚記憶が媒体に残されるのならば、個人レベルの触覚記憶や嗅覚記憶が媒体に残れば面白いのにと思うけど、前者は「触れるディスプレイ」の応用が進むことで可能になる。
*1:視覚については写真-アルバムといった個人的な媒体が既に存在した
田舎で輝くおばあさん
先日、北海道に住む友人と道内をドライブしてきた。
途中、晩酌のつまみでも買おうということになり、魚介加工品を扱う店に入った。この店は人里離れた山中にある。以前、友人が川遊びの帰りに寄ったという店で、曰く「ものは旨いが(店主の)話が長い」とのことだった。早々に退散しようと考えていたが、面白い話が聞けたので、ここに記しておく。
「私、アウトドアが好きでね。昔、車で日本一周したのよ。」
店主の女性は70代後半になるそうだが、口からは活き活きとした言葉が出てくる。
「私はこの町で自分を変えることができたのよ」
「札幌にいたんだけどね。50の年まで。あの頃地下をどんどん掘ってね。地下鉄が通ったでしょ。それまではいい街だったのに、あんな都会になっちゃった。仕事もノルマノルマでしょ。そしたらね、新さっぽろの駅で地下鉄に乗ろうとするでしょ。体が動かないの。これは私、もうダメだなって。」
「私は函館育ちで、主人は横浜育ち。浜風があるでしょう。そして、二人とも自然とアウトドアが好きだったの。私はもう、札幌じゃダメだったから…先に移住してるよ、って主人には言って。あとから来てね、って。そうして見つけたのがこの町だったの。」
「お店を開いてね。30年近くになるわよ。地域の人もよくしてくれて。息子がね、海外に行ってたんだけど…主人が亡くなってね。周りの人達が『お母さんを一人にさせて、どうするんだ』って。そしたら息子も戻ってきてくれたのよ。」
「今度この町に道の駅ができるのよ。でもね、会議を何回しても、誰がやる、何を置く、本当にできるの、って。私、言ってやったわよ。『やろうよ』って。」
「この辺りの人達は、畝を作るだけ作ってほとんど何も育てないのよ。なんでか分かる?出荷できないのよ。車がないと。だからどこにも出荷しないの。でも道の駅には置けるじゃん、って。」
「この町で私は、輝いたというか…ねえ。もう都会には戻りたくないのよ。」
「昔はここで食堂もやってたの。自転車とかバイクの人がよく来てね。どこまで行くの、って。札幌までっていうから、そんならうちに泊まっていきなよって。布団もあるから。あなたたちも泊まっていっていいんだからね。」
相槌を打つ暇もなく、こねてばかりで衝くことのない餅のような、そんな会話を楽しんで 、我々は店を後にした。やっぱり話が長いね、なんてことを車中で話しながら、色々考えてしまった。
悠々自適の生活、田舎暮らし、ロハス…そういったものに憧れて、都心を離れて暮らす人は少なからずいる。自然を求めて移住した点では、店主も同じかも知れない。しかし彼女は都会に絶望し、職を辞め、一度人生を「降りた」のである。
その後の活躍は、ご覧頂いた通りである。彼女は自然の中に埋没することなく、地域の人々と関わり合いながら、生活文化を改変させていく才覚をもっているのである。元来の気質がそうさせるのか、はたまた人生を一度「降りた」ことで人生が「輝く」ようになったのか。
経済学で扱われる人間像として、勤勉(Deligentia)*1と才覚(Industilia)*2というものがある。果たしてこの店主は、勤勉者から才覚者へと転身したようにみえる。そして「この町で自分を変えることができた」。では、この町は才覚者が活躍できる土地だったということか。彼女の今までの人生はここでの暮らしにどう関係があるのか。都会ー田舎という関係はどう関わってくるのか。
安易な二元論に陥るのは本意ではない。ただ、どうやら土地に合った性格・合わない性格というものがあり、土地を移動することで性格が変化したり、はたまた土地が自分の性に合う、ということがあるようなのである。
筆者の住む土地でも「この街には川がない」「ここにいるとダメになる」という声を聞く。それは生まれ育った家族や地域で醸成されてきた民俗がそうさせるのか、生理的にそうなのか。何らかの目的意識がそうさせるのか。単純にトポフィリア的問題として語れるのかどうなのか。
よく分からないが、こういうことがある、ということは事実である。
また、おばあさんのところへ行ってみたくなった。
最近あったいろいろなこと
最近あったいろいろなことを書いていこうと思った。
-セブンに買い物に行ったときの話
夕方、近くのセブンへ買い物に行った。女性が駐車場のバンに向かって駆けていくところを見た。派手な服装をしていた(この辺りでは珍しいくらい)が、顔は若い女子大生のように見える。女性は手を振り笑みを浮かべながらバンに乗り込んでいく。運転席にはボーイと思しき男が乗っていた。あっ、と思った。刹那、バンはどこかに向かって走り出していった。さっきファミマでも同じ光景を見た。
-ルポ① 相席居酒屋の入り口を観察してみた
秋葉原といえば''オタクの聖地''としての認識が強いが、再開発の影響や交通の利便も相まって実は飲食店が多い。そして、そんな秋葉原にも相席居酒屋がある。最近は至るところに「相席居酒屋」が出店しているが、女性は0円でお酒が飲める*1ということもあり採算が取れているのか怪しい居酒屋である。
夜9時過ぎに秋葉原を歩いていた時のことである。ふと「相席居酒屋」が目にとまり、どんな客がこの居酒屋へ入っていくのか気になった。私は街路を行きかう人々を装い入り口の観察を始めた。1組目は秋葉原に通い詰めてそうな30代前半の男性2人組。入り口で男性店員がメニューの説明をするも、納得いかないようで踵を返していった。2組目は20代前半と思しきOL3人組。ハットを被りおめかしした姿は従来の秋葉原イメージを覆すが、今や秋葉原の街にこのモードは浸透していると思う。3人は店員の説明を受けると、そのまま店に入っていった。3人は普通の居酒屋に入っていくのと同じような様子だったように思う。なるほどな、と思った。たぶん3人で飲むときと同じように楽しむんだろうし、普通に飲んで普通に帰るんだなと思った。
別の日に新宿の相席居酒屋前を通ったときは、大学生(?)の男女2人組が客寄せをしていた。
-ルポ② ドトールをどう使っているか?
先月、六本木に行く機会があった。日も暮れ始めた頃、椅子に腰かけて休みたいと思い、ドトール*2に入った。
眼前の道路から目線を上げると首都高が走る。店の窓はショーウインドウの如く、大きく、高くとってある。「高速の見える喫茶店」もなかなか文化なものですね、なんて声が聞こえてきそうだ。案の定ドトールでは女子会が開かれていた。30代前半~後半のマダムが約8名に加え、どうやら同年代の男性2名もいるみたいだ。そうすると女子会ではなく会社の懇親会かもしれない。彼女らはスイーツを頬張り、会話を楽しみ、帰っていった。この日は暑い日だった。冷房の効いた涼しい空間を求めてドトールに入る者もいるかもしれない。店内を見渡すとワイシャツを着てパソコンを持ったサラリーマンと思しき男性が多い。いっそオフィスと喫茶店を合わせてしまえばいいのにと思ったが、移動すること*3が大切なのかもしれない。
本論と全然関係ないけど、サードウェーブ系のコーヒーショップ*4では店内BGMが流れていないイメージがある。
-「君の名は。」を観てきた
よかったです。一言でまとめると、ザ・ニッポンのアニメーションって感じです。これから日本のアニメーション映画はどうなっていくのか、楽しみになりました。