Siomizuのブログ

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心地よい生活を送るためのライフハック,ライフスタイルなど

田舎で輝くおばあさん

先日、北海道に住む友人と道内をドライブしてきた。

途中、晩酌のつまみでも買おうということになり、魚介加工品を扱う店に入った。この店は人里離れた山中にある。以前、友人が川遊びの帰りに寄ったという店で、曰く「ものは旨いが(店主の)話が長い」とのことだった。早々に退散しようと考えていたが、面白い話が聞けたので、ここに記しておく。

 

「私、アウトドアが好きでね。昔、車で日本一周したのよ。」

店主の女性は70代後半になるそうだが、口からは活き活きとした言葉が出てくる。

「私はこの町で自分を変えることができたのよ」

 

「札幌にいたんだけどね。50の年まで。あの頃地下をどんどん掘ってね。地下鉄が通ったでしょ。それまではいい街だったのに、あんな都会になっちゃった。仕事もノルマノルマでしょ。そしたらね、新さっぽろの駅で地下鉄に乗ろうとするでしょ。体が動かないの。これは私、もうダメだなって。」

「私は函館育ちで、主人は横浜育ち。浜風があるでしょう。そして、二人とも自然とアウトドアが好きだったの。私はもう、札幌じゃダメだったから…先に移住してるよ、って主人には言って。あとから来てね、って。そうして見つけたのがこの町だったの。」

「お店を開いてね。30年近くになるわよ。地域の人もよくしてくれて。息子がね、海外に行ってたんだけど…主人が亡くなってね。周りの人達が『お母さんを一人にさせて、どうするんだ』って。そしたら息子も戻ってきてくれたのよ。」

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「今度この町に道の駅ができるのよ。でもね、会議を何回しても、誰がやる、何を置く、本当にできるの、って。私、言ってやったわよ。『やろうよ』って。」

「この辺りの人達は、畝を作るだけ作ってほとんど何も育てないのよ。なんでか分かる?出荷できないのよ。車がないと。だからどこにも出荷しないの。でも道の駅には置けるじゃん、って。」

 

「この町で私は、輝いたというか…ねえ。もう都会には戻りたくないのよ。」

「昔はここで食堂もやってたの。自転車とかバイクの人がよく来てね。どこまで行くの、って。札幌までっていうから、そんならうちに泊まっていきなよって。布団もあるから。あなたたちも泊まっていっていいんだからね。」

 

相槌を打つ暇もなく、こねてばかりで衝くことのない餅のような、そんな会話を楽しんで 、我々は店を後にした。やっぱり話が長いね、なんてことを車中で話しながら、色々考えてしまった。

悠々自適の生活、田舎暮らし、ロハス…そういったものに憧れて、都心を離れて暮らす人は少なからずいる。自然を求めて移住した点では、店主も同じかも知れない。しかし彼女は都会に絶望し、職を辞め、一度人生を「降りた」のである。

その後の活躍は、ご覧頂いた通りである。彼女は自然の中に埋没することなく、地域の人々と関わり合いながら、生活文化を改変させていく才覚をもっているのである。元来の気質がそうさせるのか、はたまた人生を一度「降りた」ことで人生が「輝く」ようになったのか。

 

経済学で扱われる人間像として、勤勉(Deligentia)*1と才覚(Industilia)*2というものがある。果たしてこの店主は、勤勉者から才覚者へと転身したようにみえる。そして「この町で自分を変えることができた」。では、この町は才覚者が活躍できる土地だったということか。彼女の今までの人生はここでの暮らしにどう関係があるのか。都会ー田舎という関係はどう関わってくるのか。

 

安易な二元論に陥るのは本意ではない。ただ、どうやら土地に合った性格・合わない性格というものがあり、土地を移動することで性格が変化したり、はたまた土地が自分の性に合う、ということがあるようなのである。

筆者の住む土地でも「この街には川がない」「ここにいるとダメになる」という声を聞く。それは生まれ育った家族や地域で醸成されてきた民俗がそうさせるのか、生理的にそうなのか。何らかの目的意識がそうさせるのか。単純にトポフィリア的問題として語れるのかどうなのか。

 

よく分からないが、こういうことがある、ということは事実である。

また、おばあさんのところへ行ってみたくなった。

 

*1:従来の伝統を継続維持させようとする態度のこと

*2:新しい生活を創造しようとする態度